「スロウハイツの神様」、食事という自愛の話

1日ひとつ文章を書こうと思っているのに、今日はなんだか筆が乗らない。

昨晩はビーフシチューを作った。よく炒めたたまねぎに、大きく切ったステーキ用の牛肉、にんじん、茄子、じゃがいもとトマト缶。持病持ちの家族に配慮した塩分控えめの出来上がりは満足のいくものだった。煮込み料理は根気さえあればなんとか出来上がるから、嫌いではない。メニューはクックパッドにあったものに習った。

cookpad.com

美味しいものを食べること、食べ物の味を噛み締めることは最近覚えた幸せだ。高校の頃は、なにが美味しいのかさえもよくわからなかったので、味覚に自信がなくて人の顔色を窺いながら感想を言っていた。美味しいものを食べるというのは、すなわち自分の体を労ることで、自分を大切にすることである。やる気のない日には、カップに味噌と鰹節だけ入れて湯を注いだりもする。豪華な食事ではなくとも、自分が満たされるために食事をすることはきっと幸いだ。

食事をする、と聞いて真っ先に思い浮かぶのは上橋菜穂子さんの守り人シリーズだろうか。タンダがバルサのために作る食事はいつも温かく、滋味に富んでいる。なにか他に、「あなたの書く本はどんなに悲しいときも主人公がきちんと食事をするから好きだ」と言っていた本があったような、と書いていて思い出した。辻村深月さんの『スロウハイツの神様

「環の話に出てくる登場人物は、たとえどんなにつらい時でもきちんとご飯を食べますね。裁判と裁判の間でも、お葬式の後でも、きちんと店屋物を取ったり、レストランに寄ったり。三度のご飯をきちんと食べる。ーーそれが、僕はとてもいいと思う」

どうしようもなくご飯が食べられなくなったときに、この一節を思い出す。重い腰を上げ怠い頭をもたげて箸を持つ。

辻村深月さんの本はまるで光のようだと思う。愛に溢れていて、寒い冬や暗闇のなかでゆらゆらと燃える蝋燭。学校の最寄駅で『かがみの孤城』を抱えて泣いていた日を忘れることは一生ないだろう。まわりに著作を積み上げて超えた夜は常に隣にある。

意識もしていない自分の奥底にふりつもっている言葉達にときおり気づいて灯火を見つけた気分になる。触れたすべての表現が人を形作る。

スロウハイツの神様(上) (講談社文庫)

スロウハイツの神様(上) (講談社文庫)

かがみの孤城

かがみの孤城