幕引き

帰れない道をずっと歩いて 誰かの腕に優しく抱かれた
平穏な日々が過ぎてゆくなかで 誰かの声がかすかに聞こえた


 恋人ができた。出会って2日で付き合った。
 遊ばれているのかもしれない、という不安は、時間経過で和らいでいる。でも少しだけ残っている。

 もしかしたら、ひょっとしたら、本当に私のことが好きなのかもしれない。少しずつ優しくなるし少しずつ重くなる。

 あの人のときみたいな痛みがない。だから私は、好きなのか自信がない。ふとした瞬間に思い浮かべても胸が締め付けられたりしない。相手を前にしたら食欲がなくなったりもしない。嫌われるのが怖くて自分の話ができなくなったりもしない。

 手を伸ばして抱きしめてもらうことも、伸び上がってキスをすることも、同じベットで深く眠ることも簡単にできる。そわそわもドキドキもしない、心臓は早鐘を打たない。彼に後ろから抱え込まれて脱力してしまえる。



 セックス中に、相手の首に腕を回すことさえ難しい頃があった。
 
 大好きだった人に一晩だけと言われてしまった頃。大好きな人に軽んじられて、多分私は私の価値を感じられなくなった。無下にされた理由を自分に求めた。「やり捨て」られたのではなく、誰とでも寝る女なのだと思い込もうとした。
 知らない男と寝た。
 私は誰とでも寝る女になった。

 いつしか、セックスは手段に変わった。崩れた精神でも強烈に感じられる刺激がセックスだった。別に気持ち良いわけではないときもあった。でも、ベッドの上で自由に振る舞えるようになってから、一時凌ぎの現実逃避はできた。

 それでも相手からの評価には常に怯えていた。寝る価値すらないと思われることを恐れた。寝たいと望む男がいることを承認と勘違いしていた。「セックスを望まれるということは、最低限はクリアしている」そう言い聞かせていた。根深いコンプレックスで苦しかった。

 そりゃあ悪いことばかりではなかった。経験だけは積んだおかげで、恋愛経験の少なさがバレることを恐れなくなった。女である自分に慣れた。女性らしい服を選ぶことを躊躇わなくなった。誰と寝ても、寝なくても、私そのものが変質することなどないのだと知った。

 でも、それでもずっと苦しかった。自分の首をずっと握っているのは自分の手だった。




「牧野はこれまでの人生で傷つきすぎてるよ。俺は傷つけない人だからね」

 抱きしめられて言われた言葉はきっと別れても忘れないと思う。なにもかもわかってくれるわけでも、受け入れてくれるわけでもない、完璧には程遠いただの恋人のただのセリフだけれども、とても優しい慰労で、美しい1章の幕引きだった。
 

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