「キッチン」、健全という暴力の話

宗太郎は笑った。とても背が高いので、いつも見上げる形になった。この子だったらきっとーー私は横顔を見ながら考えた。きっと、ばりばり私を引っぱり回して新しいアパートを決めさせたり、学校へ引っぱり出したりしたんだろう。
それ、その健全さがとても好きで、あこがれで、それにとってもついていけない自分をいやになりそうだったのだ。昔は。
吉本ばなな『キッチン』

高校生の頃、休んだ分の書道の補習のために放課後書道室に残るわたしに、友人が付き合ってくれていた。膨大な課題をやっつけながら「ごめんね」と言うと、友人はちらりと携帯から顔を上げた。
「別にいいけどさあ、牧野。学校はちゃんと来なきゃダメだよ。そういうものでしょ」
淡々とした言葉がいやに書道室に響いた。

学校に行かなければと信じてその通りに実行できること、沈んでいてはいけないと考えて行動に移せること。そういう真っ当な健全を持つ人と持たない人がいる。サッカーを好きな人と好きではない人がいるように。そのどちらも正解ではないし、そのどちらも間違いではない。ただ、健全は正しいとされてしまうから、人をねじ伏せることができる暴力性を孕む。

この本は、そんな健全さからは逸れた道を歩くけれども、ひどく優しい人たちの話だ。

キッチン (角川文庫)

キッチン (角川文庫)

「スロウハイツの神様」、食事という自愛の話

1日ひとつ文章を書こうと思っているのに、今日はなんだか筆が乗らない。

昨晩はビーフシチューを作った。よく炒めたたまねぎに、大きく切ったステーキ用の牛肉、にんじん、茄子、じゃがいもとトマト缶。持病持ちの家族に配慮した塩分控えめの出来上がりは満足のいくものだった。煮込み料理は根気さえあればなんとか出来上がるから、嫌いではない。メニューはクックパッドにあったものに習った。

cookpad.com

美味しいものを食べること、食べ物の味を噛み締めることは最近覚えた幸せだ。高校の頃は、なにが美味しいのかさえもよくわからなかったので、味覚に自信がなくて人の顔色を窺いながら感想を言っていた。美味しいものを食べるというのは、すなわち自分の体を労ることで、自分を大切にすることである。やる気のない日には、カップに味噌と鰹節だけ入れて湯を注いだりもする。豪華な食事ではなくとも、自分が満たされるために食事をすることはきっと幸いだ。

食事をする、と聞いて真っ先に思い浮かぶのは上橋菜穂子さんの守り人シリーズだろうか。タンダがバルサのために作る食事はいつも温かく、滋味に富んでいる。なにか他に、「あなたの書く本はどんなに悲しいときも主人公がきちんと食事をするから好きだ」と言っていた本があったような、と書いていて思い出した。辻村深月さんの『スロウハイツの神様

「環の話に出てくる登場人物は、たとえどんなにつらい時でもきちんとご飯を食べますね。裁判と裁判の間でも、お葬式の後でも、きちんと店屋物を取ったり、レストランに寄ったり。三度のご飯をきちんと食べる。ーーそれが、僕はとてもいいと思う」

どうしようもなくご飯が食べられなくなったときに、この一節を思い出す。重い腰を上げ怠い頭をもたげて箸を持つ。

辻村深月さんの本はまるで光のようだと思う。愛に溢れていて、寒い冬や暗闇のなかでゆらゆらと燃える蝋燭。学校の最寄駅で『かがみの孤城』を抱えて泣いていた日を忘れることは一生ないだろう。まわりに著作を積み上げて超えた夜は常に隣にある。

意識もしていない自分の奥底にふりつもっている言葉達にときおり気づいて灯火を見つけた気分になる。触れたすべての表現が人を形作る。

スロウハイツの神様(上) (講談社文庫)

スロウハイツの神様(上) (講談社文庫)

かがみの孤城

かがみの孤城

「つむじ風、ここにあります」、悼む権利の話

いくつもの手で撫でられて少年はようやく父の死を理解する

めずらしい友人からインスタのDMを受け取った。わたしは受験勉強にひと段落つけて、ゲームに興じていたところだった。その頃もうほとんど大学には行っていなくて、ほんの数人とごくまれにLINEのやりとりをしているだけだった。

DMは、大学での友人の死を告げるものだった。人は悲しみよりも前に衝撃で涙を流すのだと知った。

泣きながら、私に泣く権利はあるのだろうか、とぼんやりと考えた。亡くなった友人、最後に彼女に会ったのは、もう4ヶ月も前だった。友達というよりクラスメートと称した方が正しいかもしれなかった。クラスでの、違うグループに所属する知り合いのような、曖昧な距離感だったから。

理解も処理もできないままに、母に、お葬式って何を着ていけばいいんだろう、と尋ねていた。

からっぽの病室 君はここにいた まぶしいぐらいここにいたのに

葬儀へと向かう長い電車の中で、Google Photoを遡っていた。笑顔の可愛らしい、愛嬌のある人だった。こういう女の子はきっと人に好かれるんだろうと羨ましく思ったことがある。授業でペアを組むことになれば、少し高い声でにこにこと話しかけてくれる人だった。

母が死ぬ前からあった星だけど母だと思うことにしました

額縁に囲われた遺影を目にして、きっとそこで初めてわたしは彼女の死を理解した。泣く権利など考えるまでもなく、パンツスーツの膝は濡れていた。死は「かなしい」のだと気づいた。悼むことは、能動的な行為ではなく、あくまで自然と沸き起こるものだった。わたしは彼女の死がひどくかなしかった。

かなしみはいたるところに落ちていて歩けば泣いてしまう日もある

ドラマで病室に眠る人をみたとき、何気なくスクロールしたカメラロールに笑顔があったとき、LINEの友だち一覧を辿るとき、せりあがる塊を呑み下す。瞑目して、いっとき、想いを馳せる。

あなたにとって、わたしは友だちだっただろうか。わからないけれど、わたしはあなたの死が受け止め難く、かなしい。

どうか、

あの世から見える桜がどの桜より美しくありますように


引用元、すべて木下龍也『つむじ風、ここにあります』

つむじ風、ここにあります (新鋭短歌シリーズ1)

つむじ風、ここにあります (新鋭短歌シリーズ1)

  • 作者:木下龍也
  • 発売日: 2013/05/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

「シャーロック・ホームズの冒険」、ワトソンになりたいという話

シャーロック・ホームズ推理小説ではないと思っている。あえて言うなら探偵小説か。だって、どう足掻いても与えられた情報だけでは読者には推理できない。

 

それでもシャーロック・ホームズに惹かれるのは、その在り方なんだろう。

 

不遜な物言いをするけれど、これまで、偏差値だけを見れば「賢い方」として生きてきた。だからか、知性を絶対視するきらいがある。

 

畏怖し、心酔し、すべてをなげうってもいいと思える相手をどこかで探している。なにをどう頑張っても敵わない相手、軽々と人々の頭上を歩く人。シャーロック・ホームズはその象徴だったし、わたしはずっとワトソンを羨ましがっている。

 

ホームズは地球が自転することさえ知らない。だって彼には必要ないからだ。謎を解くためだけに彼は知識を蓄え、感性を鋭く研ぎ澄ます。その圧倒的な在り方!誰にも真似なんか出来はしない。

 

 

シャーロック・ホームズの冒険 (新潮文庫)

シャーロック・ホームズの冒険 (新潮文庫)

 

 

 

「或阿呆の一生」、文字を書くこと

雨が降っている。いつから降り出したのだろう。昨日は、夕方6時ごろに膝を抱えるようにして眠った。心が疲れている時ほど眠りが必要になる。中高の6年間は毎日ひたすらに眠かったことをよく覚えている。睡眠は自己を修復するための時間だ。

文字を綴る、というのは、苦行である。自分の底の浅さが見えてしまってまったく嫌になる。なんの光も持たずに生まれてきた自分を嘆くことはいつのまにかやめてしまったけれど、焦燥と苦味はいつも腹の奥底にある。

彼は雨に濡れたまま、アスファルトの上を踏んで行った。雨は可也烈しかった。彼は水沫に満ちた中にゴム引の外套の匂を感じた。
すると目の前の架空線が1本、紫いろの火花を発していた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケットは彼等の同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠していた。彼は雨の中を歩きながら、もう1度後ろの架空線を見上げた。
架空線は相変わらず鋭い火花を放っていた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかった。が、この紫色の火花だけはーー凄まじい空中の火花だけは命と取り換えてもつかまえたかった。
芥川龍之介或阿呆の一生

或阿呆の一生は、高校のとき、大好きな先生の授業で扱った。この火花を、きっと女のことだと、馬鹿にするような笑いと共に言った級友に憤慨した。わたしは芥川龍之介のどうしようもない生きにくさがとても好きである。

この本は彼の自伝的小説だ。各章のタイトルは、彼の死後、出版に際して付けられたものだと聞いたことがあるような。紹介した1節のタイトルはそのまま、火花、という。この節を読むたびにちりちりと焦がれるような気持ちを思い出す。


窓ガラスを叩く雨音はやまない。布団の上、PCを膝に抱えて踊ってばかりの国を聴いている。

或阿呆の一生

或阿呆の一生

河童・或阿呆の一生 (新潮文庫)

河童・或阿呆の一生 (新潮文庫)

「違国日記」、社会に不適合であるという話

自慢じゃないがわたしは社会生活に向いていない。まったく自慢にならない。
友人が多いことが素晴らしいことだと思っていたので、つい最近までわたしは物怖じせず人に話しかけるタイプであったし外向的であると思っていた。たいした愚か者である。間違った自己認識をし無理をするから、学校に行けなくなるのだ。

傷つきやすいといえば可愛らしいけれど、敏感であることは今の社会では弱いこととイコールだ。なにかと協働性・協調性が重視されている昨今、いちいち人の一挙一同に神経を張り巡らしていれば1週間のうち3日も保たない。

以前、精神科に行って、先生の前で「ふつうになりたい」と言って泣いた。毎日きちんと学校に行ける「ふつうの人」になりたくてたまらなかった。病気でもないのに布団から出られなくなる自分にはなにか致命的な欠陥があるのだと思った。人と違うというのは間違っていることだと。

わたしが心の支えのようにしている漫画に、ちょうどいい台詞がある。「違国日記」というその漫画は、簡単にいうと親を亡くした少女が叔母に引き取られる、その生活を描いたもので、いちいち台詞が繊細に琴線に触れるのだ。

わたしの妹 あなたはどうやって ひとと違う自分に耐えて生きているのだろう

どうしてわたしはこんなに世界と繋がるのがうまくないんだろう

ひとと暮らすことは、ひととの違いを見つめることで、世界と繋がることは、違いに耐えることだ。
わたしはどうにも弱くて、自分の欠けが耐えきれなくて、平均的な人間の型にどうにか自分をはめてしまおうと四苦八苦しては罅を入れてしまう。けれどきっと、誰しも完璧に型通りではないんだろう。そして、それは劣っているということではない。

わかっている、わかっているんだけれども、悲しいかな、気持ちは頭についていかないのだ。

大学の授業はオンラインになった。正直、人と顔を合わせずに済むことに少々安心している。

「ミルクとはちみつ」、自暴自棄になってセフレができた話

2019年の10月までわたしには性的な経験がなかった。拗らせているので、春先にできた恋人とは長く続かず、子どもじみたキスを2回したきりだった。

特に初めてを大事にしていたわけではないけれど、縁がなかった、というのが1番的確だろうか。縁もタイミングもなく、バージンロードを大手ふって歩けるな、なんて思いながら19年。

だからアプリで出会った男相手にショジョを散らすことになるとは正直想像だにしていなかった。

きっかけは単純かつありきたりだ。好きだった人に勢いで手を出されてぐちゃぐちゃになってしまったのだ。カラオケに行った時だったので、最後までできるはずもなく、撫でられ舐められ、朝の5時に別れたわたしは駅のロータリーで30分ほど泣いて、それから、誰か男の人と寝ようと心に決めた。服からはさっきまで抱き合っていた人と同じ匂いがしていた。涙が止まらないのに、幸せだと、覚えておこうと思った3時間はまぶたの裏で滲むこともなく繰り返し再生されていた。

1人目

初めてセックスをしたのはその次の日だった。

駅で待ち合わせて、思いの外整った顔をした相手に驚いた。それでも、好きな人とは比べものにならないとも思った。べこべこに凹んだ心はまだ後生大事に気持ちを抱え込んだままだった。

気づけばホテルにいた。ラブホテルは初めてだった。並んで歯磨きをした。腰に手を添えられ促されてベッドに腰掛けて、男とキスをした。いやに現実感がなかった。誰かの人生をロールプレイしているみたいだと思った。ピンクやら水色やら黄色やらに変わっていくライトの下では、羞恥心は正常に作用しなかった。

ショジョであることは最中に打ち明けた。おそらく遊び慣れた男は、丁寧だった。それに心底セックスを楽しむタイプだった。耳の中から足先まで舐められて、わたしはたぶんひっきりなしに声を上げていた。「忘れたい」とお願いした通りに、男はあっという間にわたしの頭の中から好きな人のことを奪い去ってくれた。口移しのミネラルウォーターも、コンドーム越しの挿入も、好きな人からは与えられなかった感触だった。何度も体位を変えて、口で相手のものを慰めることさえした。

「いっぱい出たわ」と、口を縛ったコンドームを笑いながら男は揺らした。わたしには、それが多いのか少ないのか、よくわからなかった。なにもかもが新しかった。

キスをして先にホテルを出た。友人との待ち合わせが30分後に迫っていた。

2人目

2人目とはカラオケで会った。友人の誰かによく似ていたけれど、それが誰かは思いつかなかった。

3人目

男の人と約束をするたびに、心がすり減っていくようだった。ビッチの役は難しかった。けれど、これを手放したら、本当に空っぽになってしまいそうだった。

3人目とは、本当は会いたくなかった。わたしは疲れ果てていた。愛もなく人はセックスできるのだと思い知っていた。それを求めていたにも関わらず、わたしはそれを手に絶望していた。

ただ、3人目との約束の日に、好きな人と目があってしまったから。夜の11時に約束があるのだという事実に、わずかにけげんそうな顔をしていたから。これは復讐なのだと思った。わたしは、あなたの前から違う男と一晩を過ごしに行く。愛がなくったっていいのだ、あなたとわたしの間で起こったことも「その程度」なのだから。

3人目は上手くも下手でもなかった。痛かったから下手だったのかもしれない。ただ、アプリを使っていそうには見えない、堅実で穏やかな印象が好きな人と重なって、男の肩越しに好きな人の姿ばかり思い浮かべていた。口淫もさせなければ乱暴に扱われることもない、コンドームをつけるときには一旦ベッドサイドの電気を点けるような人だった。

2回戦目はホテル代を出してくれた分のサービスだと思って揺すられた。明け方、寝息をたてる男の傍から抜け出してホテルを出て一蘭でラーメンを食べた。他の人と顔を合わせずに済むシステムがありがたかった。



とうとう何もかも底をついた。手に入ったものはなにもなかった。

その後

それから、わたしは家に引きこもって勉強に打ち込むようになった。なにも考えたくなかった。誰とも会いたくなかった。休息が必要だった。

3人の男のおかげか、好きだった人のことを甘い痛みと共に思い出すようなことはなくなっていた。

ルピ・クーアの「ミルクとはちみつ」はそんな時に買った。

あなたは私を見て泣く
何もかも痛い

私はあなたを抱きしめてささやく
でもいつかすべて治る

もっとも必要としていた慰めがそこにあった。

それが難しいことは知ってる
私を信じて
今日は史上最大に生き抜くのが難しい日で
まるで明日が決してこないかのように
感じるって知ってる
でもあなたは乗り越えられるはず
痛みは過ぎ去ってゆくでしょう
いつもそうだから
あなたが時間をかけて
そのままにすれば
だから
そのままで
ゆっくりと
守られなかった約束のように
そのままで


今では、思い出して涙するようなことも減って、たまに瘡蓋を引っ掻いて剥がしてみたりするぐらいで。なんとか歩いている。1人目とはたまに連絡を取る。

ミルクとはちみつ

ミルクとはちみつ