「違国日記」、社会に不適合であるという話

自慢じゃないがわたしは社会生活に向いていない。まったく自慢にならない。
友人が多いことが素晴らしいことだと思っていたので、つい最近までわたしは物怖じせず人に話しかけるタイプであったし外向的であると思っていた。たいした愚か者である。間違った自己認識をし無理をするから、学校に行けなくなるのだ。

傷つきやすいといえば可愛らしいけれど、敏感であることは今の社会では弱いこととイコールだ。なにかと協働性・協調性が重視されている昨今、いちいち人の一挙一同に神経を張り巡らしていれば1週間のうち3日も保たない。

以前、精神科に行って、先生の前で「ふつうになりたい」と言って泣いた。毎日きちんと学校に行ける「ふつうの人」になりたくてたまらなかった。病気でもないのに布団から出られなくなる自分にはなにか致命的な欠陥があるのだと思った。人と違うというのは間違っていることだと。

わたしが心の支えのようにしている漫画に、ちょうどいい台詞がある。「違国日記」というその漫画は、簡単にいうと親を亡くした少女が叔母に引き取られる、その生活を描いたもので、いちいち台詞が繊細に琴線に触れるのだ。

わたしの妹 あなたはどうやって ひとと違う自分に耐えて生きているのだろう

どうしてわたしはこんなに世界と繋がるのがうまくないんだろう

ひとと暮らすことは、ひととの違いを見つめることで、世界と繋がることは、違いに耐えることだ。
わたしはどうにも弱くて、自分の欠けが耐えきれなくて、平均的な人間の型にどうにか自分をはめてしまおうと四苦八苦しては罅を入れてしまう。けれどきっと、誰しも完璧に型通りではないんだろう。そして、それは劣っているということではない。

わかっている、わかっているんだけれども、悲しいかな、気持ちは頭についていかないのだ。

大学の授業はオンラインになった。正直、人と顔を合わせずに済むことに少々安心している。